現在のベったら祭りの起こりは、江戸時代(旧暦)10月20日に行われる恵比寿講の支度に必要な恵比寿、大黒の像やお供物,三方,神具類を始め食料品、特に近くの日本橋魚河岸から干物などを持ち込んで売っていたところから、腐れ市(くされいち)と呼ばれ、この市がべったら祭りの起こりといわれている。(守定漫稿)等の記録によるとこうした市に江戸近郊の農家の人々がその年の秋に収穫した新漬大根や干し大根を塩糠に漬けたもの、今のべったら漬けと同じ麹で甘みをつけ、醗酵によって風味をつけた浅漬大根などが売られていた。
明治19年、日本橋、京橋、浜町等の近隣でコレラが大流行し、多数患者、死者が出た、このコレラの流行は恵比須講の商材を鯛から砂糖で甘みをつけた浅漬大根(べったら漬)に次第に変えていった。
明治のころ諸外国との不平等条約によって砂糖の価格が暴落し、さらに旧暦の開催から新暦の開催によって、一ヶ月早い恵比須講で売られた甘味ののった冬大根の浅漬から、甘味の少ない秋大根の甘味不足を砂糖によって補ったと思われる。日本の一般の庶民が砂糖の甘味知ったのはこの市からかもしれない。大伝馬町付近は明治後半から発展した都電(当時は市電)により、交通の要所となり、ベッタラ市は明治末期には東京一の祭りとなった。
年の市の先駆けとして、この市の売買によって、翌年の相場の標準が決まるといわれ、重要な年中行事となっていた。(中央区史 下巻2より)
現在のべったら漬は、東京特産の練馬大根を国内の農家と契約栽培して作り、皮をむいて塩で下漬けし、これを麹と砂糖で本漬けしたもの。 |