たくあん漬の由来
名僧・沢庵禅師が紫衣事件で東北へ流罪となり3年の後に、大赦によって品川の万松山東海寺に 開山した折り、この寺に徳川三代将軍・家光将軍が来訪。「何のもてなしも出来ないが貯え漬・香の物有り」と湯づけ(大根の糠付けの湯通ししたもの?)を献じると「貯え漬でなく、これは沢庵漬だ」と、家光将軍がその大根の糠漬の素朴で風味・香りの良さを賞賛した事から、以降大根の糠漬が沢庵漬と呼ばれたのが定説とされています。徳川三代将軍・家光によって徳川幕府の基礎が固められつつある時代、庶民の間では既に多種野菜が塩に漬けられ「貯え漬」(たくわえ漬)として食されていました。諸説あるようです。
沢庵和尚
沢庵和尚はわずか十歳で両親と別れ仏門に入り、乱世を無欲な修行に徹し、質素で自由人であったが、やがて名高い大徳寺の住職になり幕府と対立(紫衣事件)、出羽(山形)の上ノ山に流された経緯があります。この東北の生活の中で付近の農民とともに漬物の研究工夫を行ったと言われ、禅師の住まいだった“春雨庵”では今も沢庵漬を奉納する年中行事が行われています。
沢庵漬の変遷
江戸時代以前や食糧難の時は大根は「もみがら」で漬けられていました。やがて、沢庵和尚が、中国に伝わる米の「糠(ぬか)」で漬けることを書で学び、農民に伝授したとも言われています。従って、沢庵漬の基本は米の糠(ぬか)で漬けるが、小麦の糖(ふすま)も使われるようになりました。近年は、これら糖漬の他にさまざまな「調味液」によって味覚のバラエティ化が図られています。そして原料大根の種類も実に多くなり全国各地で特色ある大根が生産され、その特色を生かした沢庵漬製品が市場にしゅっかされるようになりました。近年は中国中心に海外での製品かも始まりました。
沢庵の種類
大きくは「本漬沢庵」と「新漬沢庵」とに分かれます。本漬沢庵には大根を干してから漬ける「本干し(乾燥)沢庵」と干さないで塩で押して水分を出してから漬ける(調味する)「塩押し沢庵」があります。白秋、新八州種など皮が固い大根は皮をむいて塩押しする沢庵もあります。また、高度成長とともに、消費者が鮮度感を求め、新漬とか浅漬とか呼ばれる沢庵も出荷されるようになり、液糖で水分を搾った「糖搾り沢庵」も登場しました。沢庵の名産品では秋田のいぶり沢庵、新潟の皮むき沢庵、関東の東京沢庵、七尾沢庵、三重の伊勢沢庵、和歌山の紀の川漬、愛知の渥美沢庵、南九州の干し沢庵、塩押し(生漬沢庵)などがあります。
全国各地の沢庵
- いぶし沢庵(秋田)
「いぶりがっこ」とも呼ばれます。東北では秋の取り入れが終わると冬がすぐに来て農家では炉辺に火を入れ、干した大根は野外に置くと凍てつくため炉の上につり下げます。このいぶしによって保存に加え風味を味わいます。量の少なくなったもの程逸品。
- 東京沢庵(東京)
この東京沢庵タイプがたくあんの5割以上を占有。現在はマーケットの主流です。東京の呼称がついていますが北海道から九州まで生産されています。大根と言えば練馬と言われるほど有名な練馬大根は、江戸時代、徳川綱吉が尾張の国から種子を取り寄せて練馬で造らせたのが始まりとされています。昭和40年代には、ほとんど市場に出回ることがなくなりましたが、この「幻の沢庵」を復活させようと、育成事業に着手。現在、区の委託を受けた農家によって栽培され、「秋まさり」、「西町理想」、「八州」といった大根種栽培で、製品化されています。
当初は「干し大根」でしたが、やがて、「塩押し」「生漬」「おっぺし沢庵」と称されるように干さずに直接、生大根を塩で押し水分を出してから調味を付すようになりました。渥美沢庵などの「干し沢庵」が、寒風にさらして、「のの字」になるほどしわしわになるまで水分をとばすため硬めなのに対して、塩押しは歩留まりが80%程度でパリパリとした柔らかい歯切れが特徴です。時代が進むにつれて硬いものが敬遠されるようになり、九州も「干し沢庵」減退をフォローするため塩押し沢庵にチャレンジ。今や九州の方が塩押し生産が多くなっています。干し同様に原料を冷蔵庫でストックするものもありますが、室温漬込みも行われています。
- 渥美沢庵(愛知県)干し沢庵
冬が温暖で大根には最適産地の渥美半島で製造されます。海風は大根干しに打ってつけ。小型で短いけれど繊維質が少なく肉質のしまった歯切れのいい大根が出来ます。2週間もかけて寒干しします。ぬか漬は米ぬかに柿の皮(まろやかな甘みが付く),茄子の葉(香りつけ),昆布(味に深みをもたせる),唐辛子や塩などの調味料を加えた糠床で,約一年間重石をして漬け込みます。光が入らず、温度変化の少ない蔵の中でじっくり熟成させていますので風味豊かで自然の甘みと香りよい仕上がりです。昭和30年代には日本一のたくあんの産地になり、一世を風靡しました。今では入手が困難で貴重なブランドです。
- 紀の川漬
小柄で甘味の強い紀州ダイコンを生漬用い、沢庵の改良品として考えられた歯ごたえのほどよい漬物。和歌山、三重、から北海道、九州まで広がり、県外メーカーも増大。やがて年間の商品になりました。今は生産量が減少していますが、この紀の川漬を守ろうという動きが各地で広がっています。近年は「調味液」によって味覚のバラエティ化が図られています。そして原料大根の種類も実に多くなり全国各地で特色ある大根が生産され、その特色を生かした沢庵漬製品が市場に出荷されるようになりました。また、中国中心に海外での製品化も始まっています。
- 九州本干し沢庵
宮崎、鹿児島が一大産地。ハザ掛けは冬の風物詩です。棚を組んで大根を干す作業は農家にとって大変重労働で、だんだん作る農家も減っています。太陽というより風による乾燥を目的として宮崎の日向灘、鹿児島の山川、頴娃、指宿、大根占など海沿いが産地です。干し理想、阿波晩成などの品種の大根を栽培して畑で洗い、5.5m、10段の高い屋根状の枠を組んで干し、歩留まり6割程度に乾燥します。2〜3週間干すと半分程度の重量になり甘みや風味が増します。「山川漬」、「つぼ漬」との呼称がされますが、「山川漬」と言われるのは薩摩半島の南端の山川港が発祥の地だからで、発祥した頃は「つぼ漬」と呼ばれいたそうです。それは乾燥大根を海水でつぼに漬けて発酵させて作ったからで、今はネベトロと言われる大きな容器に漬け込まれ製法も違います。大根600kgを塩糠で漬け冷蔵庫で熟成。塩度は出荷する季節によって調整、加工時期が着たら取り出し、水洗いして調味液に3日から5日漬け込み、包装して80度20分の加熱殺菌を行います。近年は本当に壷で昔ながらのつぼ漬にチャレンジするメーカーもあります。
- 新漬沢庵
数日塩で押した大根を調味加工して集荷、北海道の畑で取れた真っ白い大根が5日目にはもう店頭に並ぶなど妙味ある商品として一世を風靡しました。今でこそ消費者にいろいろな大根製品や浅漬が提供されるようになりましたが、沢庵の浅漬で夏から初秋にかけての季節限定商品。信州で始まり北海道、九州と産地が移動しつつ、定番の漬物です。
- 沢庵はなぜ黄色いか、匂いは
沢庵は漬けているうちに科学的反応を起こし黄色くなります。冷蔵庫など低音で漬けると黄色が抑えられて白く仕上がります。しかし、光に弱く店頭の棚の蛍光灯で分解され表面と裏が黄色と白の色違いになることから黄色に着色された経緯があります。また、沢庵の匂いを嫌がる人が増えていますが、これも大根の辛み成分が化学変化して起きるものです。熟成中に出来た独特のこの香り、近年は消費者のニーズに応え、除去が研究されている所です。
沢庵の健康性
沢庵は大根の余分な水分を抜き、繊維質豊富な漬物です。特に天日で寒風にさらす干し沢庵は、このごろ「硬い」と敬遠されがちですが、繊維質は腸などのガンに効果を発揮する食品と言うことが研究者間や、各メディアによって広く研究が進められています。
江戸市中の沢庵漬
葉を除いて丸干しした大根を塩糠にしたものを、上方では「香々」といい、江戸では「沢庵漬」という。江戸の庶民は自分ではたくあんを漬けることは少ない。江東区 深川江戸資料館に江戸時代の八百屋(当時は青物屋と呼ばれていた)が再現されている。店頭には大樽に入れられた沢庵漬がおかれ、干した大根が売られていた。今と違って冷蔵庫も無く、旬の野菜しか置かれていなかった。
建てこんだ江戸の庶民の長屋で、土間に大樽を据えて、気の長い沢庵を漬け込むのは難しかった。頻発する火災に遭遇した場合、重石をのせてびくともしない漬け物樽は、逃げ場を塞ぐ障害物になる危険性もあったのである。
明暦3年(1657)本郷丸山町の本妙寺からあがった火の手は死者10余万人を出す江戸史上最大の火災となった。江戸城をはじめとする八百町あまりの武家屋敷、町家が焼かれ、家康以来の初期江戸は壊滅状態に陥った。俗に振袖家事とも呼ばれるこの大火は、江戸の人々に多くの教訓をもたらす。幕府は災害後の新たな対策とし、火余地の増設、大名屋敷の増加、寺社の郊外への移転など多様な都市改造を実施した。
町人たちの間でも災害対策の意識は浸透した。明暦の大火の以後は火事の際に荷物を持って逃げるものは少なくなった。しかし江戸はこのあともたびたび大きな火事にみまわれた。 |